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『援助者が臨床にふみとどまるとき』《はじめに》

はじめに
■ 「援助すること」とは ■
 援助すること,すなわち人を助けることとは,どういうことなのでしょうか。援助とは日常的な言葉ですから,ここではまず,素朴なイメージを手がかりに考えてみましょう。
 たとえば,路上で誰かが転んだ場面に出くわしたとします。そのとき,私たちはまず,とまどいながらも何とかしなければならないと焦ります。あまり深刻なケガなどがなさそうであれば,声をかけてみたり,散らばったものを拾い集める,などといったことが思い浮かびます。痛みが強そうであれば,起き上がる際に手や肩を貸したり,ゆっくりできそうな場所に移したり,といったことも考えられます。出血がひどいときや意識を失っているような場合には,すぐさま救急車を手配します。
 こうした素朴なイメージから考えてみると,援助というものは第一に,目の前で生じている状況に対して,それを「良くない」こととして否定的にとらえることから始まるのがわかります。そのうえで第二に,その否定的な状況をより望ましい方向に変えていこうとします。すなわち,援助とは,誰かが困っているときや望ましくない状態に置かれているときに,それをより良い方向へ何とか変えようとすることなのです。したがって,援助については通常,「何に」対して,「どのように」変えていけばよいのかが論じられることになります。
 ところが,現実には,望ましい方向へと変えていくための手立てが,どうしても見つからないような状況も少なくはありません。本書は,あえてそうした状況を設定したうえで,私たちに何ができるのだろうかといった問いを立ててみるものです。
■ 悲嘆のつぶやき ■
 「どうして,こんなことになってしまったのか……」といった,嘆きとも呻きともつかないようなつぶやきが,この世にはあります。かけがえのない何かが突然失われたときなどに,こうしたつぶやきが口をつきます。災害や病気,事故や事件など,想像することさえなかった現実の急変によって,当たり前にできていたことができなくなったり,いつもそばにいた人に二度と会えなくなったり,大切にしていたモノがなくなったりなどといったときです。
 このつぶやきには誰も答えてはくれません。というのも,このつぶやきは,回答のないことを確認する一つの手順にすぎないからです。それは,どうすることもできない自分の無力さをかみしめながら,何とか問いの形式を保つことで,その場に踏みとどまることを可能にしています。なぜなら,問うことによって,あたかもどこかに正解があるかのような錯覚に,それはまだ見つかっていないだけだといった幻想に,逃げ込むことができるからです。
 しかし,失われた何かが再び戻ることはありません。だとすればこのつぶやきは,理不尽な現実を前にした,ため息であるともいえます。どうするべきだったのか,どうすればよかったのか,といった正解などどこにもないことに,たとえあったとしても,もはや手遅れでしかないことに気づいているがゆえに,つぶやく以外にはなすすべがないのです。
 このように,大切にしていた何かを失い,それが再び戻ってくることはあり得ないという現実を前にして,無力さを思い知らされることがあります。それがいつ,どこで,私たちに訪れるのかは,誰にもわかりません。
■ 悲嘆する人への態度 ■
 では,もし,力なくうなだれ悲嘆する人を目のあたりにしたとき,援助をするべき立場にある人にはいったい何ができるのでしょうか。
 こんなとき援助者に限らず,人がとることのできる態度は,大きく分けると二つあります。
 一つは,そこから立ち去ることです。すなわち,見捨てることです。自分がいたところで何の役にも立たないし,そもそも自分とは何の関係もないからと,背を向けて見て見ぬふりをすることができます。もちろん,あざ笑ったり罵ったりといったバリエーションもありますが,いずれにしてもその場にとどまることはありません。
 もう一つは,その人のかたわらに踏みとどまることです。たとえ何もできなくても,失われた何かを取り戻すことは誰にもなし得ないとしても,その人を見捨てることだけはするまいと決めることです。ただし,踏みとどまったからといって,何かができるわけではありません。かけるべき言葉も浮かばず,なすべきこともわからないまま,焦りととまどいに心が締めつけられ,それでもただその場に居続けようとたたずみ,息を呑むだけです。
 もちろん,援助者が立ち去るような態度をとることは許されません。しかし,許されないということは,逆にいえば「できる」ということでもあります。実際,その場にとどまりながらも気持ちとしては目をそらしてしまうことが,いかなる場合にもあり得ないと言い切るのは難しいでしょう。ですが,そのような人を「援助者」と呼ぶことはできません。ここでの援助者とは,今すぐできる何かが見当たらなくても,悲嘆する人のかたわらに踏みとどまろうと心に決めた人のことをいいます。
■ 臨床 ■
 悲しみを抱え込んだ人のそばに援助者が踏みとどまる,そのような場を,本書では「臨床」と呼びます。すなわち臨床とは,「助ける」とか「支える」といった言葉を使うことさえためらわれるような場で,何もできないにもかかわらず,うなだれている誰かのかたわらに援助者が踏みとどまることをいいます。
 援助者もまた,立ち去ることができます。だからこそ,そこに踏みとどまるとき,臨床が立ち現れます。ここでいう臨床とは,どこかに「ある」ものではなく,誰かが「生み出す」ものであり,生み出す人を「援助者」と呼びます。
 本書は,かけがえのない何かを失うなどの圧倒的な現実を前にして,悲しみに暮れることしかできないような人のかたわらに援助者が踏みとどまるとき,そこではどのようなことが起きるのだろうかといった問いについて,考えていくものです。
 ただし,大切な何かを失うことだけではなく,それも含めた「思いどおりにならない現実」を手がかりとして出発します。私たちは,喪失だけでなく,失敗や敗北,挫折などによっても深い悲しみに襲われることがあるからです。
■ 本書の内容と構成 ■
 本書は大きくⅡ部に分かれています。第Ⅰ部「原理論」では,現実に対する根本的なとらえ方として,現状にそのままOKを出して受け入れる「肯定原理」と,現状のままではNG(no good)としてさらなる成長や発展をうながす「否定原理」を取り上げます。また,第Ⅱ部「臨床論」では,圧倒的な現実にうちひしがれる人のかたわらに誰かが踏みとどまるとき,そこには肯定原理に基づく「臨床」が生まれることを説明します。
 各章の冒頭には,【前提】と【問い】があります。次ページからは【考え方】があり,【問い】に対してどのように考えていけばよいのかを示しています。そして各章の末尾に,【答え】があります。各章では,【前提】を足がかりとして,【問い】に対する【答え】を理屈で追っていきます。理屈とは,特別な知識がなくても,考えていけばそのままたどれるものでもあります。そのため,サブタイトルには「論理思考」を入れました。【問い】に対しては何らの予備知識も必要ありませんので,たとえ一瞬でも立ち止まり,【前提】を踏まえたうえで思いをめぐらせれば,【考え方】のポイントがよく見えると思います。ただし,第1章と第9章では,【考え方】の前に【答え】があります。というのも,そこでは,【前提】と【問い】からただちに【答え】を導き出すことができるからです。
 また,「補章」を一つと「コラム」を四つ置いています。筋立てからは少し外れますが,補足的な説明として,あるいは具体的なイメージを持っていただく例として加えました。

 2015年7月
稲沢 公一 

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